五十嵐ちひろの頭の整頓

考えたことを文章に残しておきます。

読書文化と古本屋とお布施

今より10年以上前の話だけど、当時わたしの師と呼べる人が言っていた。「本は新品を買って読め」と。本の著者はその本に記す知識を得るために膨大な時間と労力をかけていて、それを本を読むだけで得られるようにしてくれているのだから払って然るべき。確か彼はそんな風に言っていた気がする。当時高校生か大学生だったわたし。彼の言うことは一理あると思ったがいかんせんお金が無かった。正確には明日食べる物にも困るような極貧では無かったのだが、マンガにしろちょっとしたエッセイにしろ、あれば古本屋で買うことの方が多かったように思う。

 

ときは経ってわたしも当時の彼の年齢と同じかそれを上回る歳になった。お金もたくさんとは言えないけれど十分に生活できるくらいには持っている。本はなるべく新品のものを書店で買うようにしている。当時教わったことを今こそ実践すべきとき、という思いもあるし、何しろ素晴らしい本を生み出してくれた人には印税が入って欲しいのだ。

 

多分わたしの中にあるオタクの部分がそうさせていると思うのだが、特にマンガにおいて好きな作品を作ってくれた作者にはお布施をしたくなる。銀行口座を公開してくれたら毎月500円くらいは振り込みたい作家が何人かいる。(500円は気持ちを添えるには安すぎるんだけど毎月複数名となるとこれくらいが限界)最近はそういう気持ちに応えてくれるシステムがあるにはあるけど、何より手っ取り早いのはその人の作品を正規のルートで購入して印税として還元することなのだ。

 

かつてオタクは言いました。自宅用、保管用、布教用に3冊セットで買う。と。確かに自宅用に1冊必要だ。それが呼んでボロボロになってしまっては悲しいのでもう1冊必要だ。更に人にも作品の良さを知って欲しいし貸している間に自分が読めないのは嫌なのでもう1冊、計3冊必要であるという考え方とわたしは解釈していたが、これはまるっきり自分本位な面しか見れていなかった。3冊買うことによって、作者には3冊分の印税が入り、また布教によって更に購買者を増やすことができると思うとやはりこの「自宅用、保管用、布教用」は非常に優れたアイディアであると思える。

 

ちなみに本に対して定価を支払うべきという考えを持つ人の中には「自腹を切って金を払えば元を取る為に一所懸命吸収するから」という意見もあるが、そんなのはうんこである。自腹を切って2年分払ったサーバーにブログの開設すらしないまま1年が経とうとし、親の脛をかじって行った留学先でイタリア語がペラペラになったわたしが自信を持って断言する。

 

本筋に戻る。本を買うなら定価で、作者にお金がちゃんと入る方法で。とてもクリーンな感じがする。しかしこの考え方は、突き詰めれば図書館や古本屋の存在を否定することになるのでは?という考えに行きつく。しかしそうではない、それは全く持って違うのだよ。

 

世の中には学生だった頃のわたしのようにお金が無かったり、本1冊に定価を支払う価値を見出せなかったりする人もいる。でもそういった人たちもやはり本を読む権利は失われてはいけないのだ。その為に、古本屋も図書館も絶対に必要なものだと思う。

 

面白いか分からない小説に、定価を支払う勇気がない?古本屋で買いましょう。いいと思ったらその本は布教用にして、自分用にもう1冊新品を買いましょう。もちろん生涯その本を大事に繰り返し読むのもいいと思う。どっかのブックレビューで高評価をつけておくのもいいし、作家の次の作品は定価で買ってみるのもいいし、別にそんな義理を通さなくてもいい。

 

いましている勉強にめっちゃ役に立つはずのあの本がべらぼうに高い?図書館で借りましょう。そんな高級な本、読む人がいないと図書館もいずれ蔵書をやめちゃうかも知れませんから、後に続く人の為にも必要な人がいるんだ、って証拠を残しておきましょう。そもそも普通の人がポンポン買うことを想定していないからその値段なんだと思うし。罪悪感を覚える必要はありません。その本から得た知識、おもいっきり発揮しちゃってください。

 

憎いあんちきしょうの書いた本を読んでからメッタクソに批判してやりたいけど、野郎の懐に金が入るのが嫌だ?まあ、古本屋で買ってもいいけど、多分そこまで執着している時点で野郎の懐に金が入るシステムに組み込まれていると思うよ、冷静になってね?

 

古本屋も図書館も、今は手に入らなくなった本に出会える場でもある。わたしが20年以上読み続けてこの冬最終巻が発刊された波間信子作の「ハッピー!」という盲導犬マンガも、なぜか第2部の「ハッピー!ハッピー♪」の10巻のみが出版社にも在庫が無い状況になっているので、いずれ古本屋で見つけようと思っている。あと、アノ漫画家のアレ時代の作品を手に入れたくて、池袋のまんだらけを定期的にパトロールしているお友だちもいるだろう?

 

と、どうしてもマンガの話が多くなってしまうわたしだけど、本も時々は買うし読む。最近は買っただけで読んでいないいわゆる「積ん読」や、残り10ページになったらつまらなくて読むのを止めてしまったり、最初の10ページ以降集中力が続かなくなって止めてしまったりした本もあるが、「積ん読も持ち主の価値観に影響を与えている」と言った偉い人がいるらしいので、それはそれでいいことにしておく。

 

読み終わったばかりのミステリー小説の読書体験が素晴らしいものであったので、またミステリーを読みたいなあ、でもこのペースで毎回定価で買うのは厳しいなあ、でも古本屋で買うのも図書館で借りて読むのも、作者の苦労にただ乗りするみたいでいやだなあ、とか考えてこの記事を書こうと思ったのであった。

 

まあ、こんな難しいことを考えなくても、古本屋にしろ図書館にしろ、読書という文化を支える存在であることには違いがないのだ。各々が自分にあったスタイルで本を読むことができる環境があることが豊かさなのだ。