五十嵐ちひろの頭の整頓

考えたことを文章に残しておきます。

公立の女子校・男子校なくす?共学化する?

私の出身高校の話をします。

埼玉県立春日部女子高校。通称春女(かすじょ)。ここで過ごした日々は私にとっての一生の宝物で、生涯の友だちを複数作ることもできた、本当に思い入れの深い存在です。そして、そうであったのは、春女が「県立の女子校であった」ということに起因していると思っています。

 

そんな春女がいま、共学化を迫られています。

昨年8月に埼玉県の第三者機関「男女共同参画苦情処理委員」によって、県内の全ての男女別学校は共学化するようにとの勧告を受けたのです。

参考記事↓

www.saitama-np.co.jp

県内には現在、12校の県立別学校(一部定時制は共学)があり、その他にも共学だけどクラスは男女別という高校もあります。埼玉県以外で公立の別学校があるのは、今は栃木と群馬だけのようです。公立の男子校、女子校というものに西の人たちは馴染みがないかも知れませんが、私立のそれとはまた違った雰囲気を持っているものだと、私自身は認識しています。

 

さて、この男女共同参画苦情処理委員による勧告というのは初めてではなく、21年ぶり2度目です。21年前(2022年)というと私が入学する2年前でした。当時の各校の生徒会、同窓会、保護者会などの反発を受けて、教育委員会は2003年に当面は現状維持と結論づけています

私は2005年度に生徒会役員をしていました。当時別学校の生徒会役員で構成される会議(名前は忘れてしまったのですが)があり、共学化に反対するために組織されていたのですが、ちょうど2005年に解散が決まりました。解散を提案する会議に出席した記憶がぼんやりあります。確か、勧告後に活動をしてきて、教委の結論が出た後も動静を見ていたが、しばらくは共学化の大きな動きは起こらないであろう、と判断してのことだったと思います。なので、私自身は21年前の反対運動には関わっていないのですが、おかげで3年間春女に通えたことを思うと、当時頑張ってくれた生徒会の人たちに強い感謝の気持ちを今でも感じています。

 

さて、男女共同参画苦情処理委員による勧告を受けて、県内別学校では当然共学化には反対するので、別学継続を求める署名活動が始まりました。このニュースを知って私はいま、非常に悩む立場にあります。

参考記事↓

www.saitama-np.co.jp

 

関連記事などを読んで考えた、私が個人的に考える「共学化すべき理由」と「別学校を維持すべき理由」を書いていきます。

 

【別学校を維持すべき理由】

  • 選択肢が多いことは豊かなことだから
  • 女子教育にとってプラスになるから

ひとつずつ詳しく書いていきます。

 

選択肢が多いことは豊かなことだから

私が三重県に来て驚いたことの一つに高校の選択肢が少ないことがあります。中学生が高校を選択するときに「学力」と「私学か公立か」を考えるとほぼ1校か2校に絞られてしまうのを知ってショックを受けました。

翻って私が中学3年生の頃、「学力」と「私学か公立か」だけで絞ったら10校は選択肢がありました。なので「校風」で選んだんです。校風で選んで春女でした。10校の中にはもう1校女子校がありました。

こうやって校風で選べるのは人口の多い地域の特権です。ですが、すでにある選択肢をわざわざ減らすというのは、賛成できません。

例えば、春女は私が入学した頃からどんどん偏差値を落として、人気も無くなってきていました。その春女1校が近隣の共学校に統合されるとか共学化されるとか、となれば、それは一種の自然淘汰だと思って受け入れられます(同窓生として反対はしますが)。しかし、全ての別学校を共学化してしまったら、別学校だから作り出せた校風という選択肢は失われてしまうのです。

 

女子教育にとってプラスだから

春女で過ごした日々を思い返すと、3年間ずっとセーフスペースにいられたと感じます。もちろん全ての生徒にとってそうであったわけではないと思いますが、私にとっては傷つけられたり、貶められたりする危険のない、安心できる空間と時間がそこにはありました。

女だけの社会はドロドロしている、という人が男女ともに多くいますが、女子校と複数の女性だけの職場を経験してきた私に言わせれば、そんなもんは男社会のために作られたファンタジーです。

進学する高校がすべて抽選で決められる、韓国ソウルの学生を対象にした調査では、女子校に進学した生徒の方が、共学校に進学した生徒よりも成績が上がる傾向にあることが示されているそうです。

参考記事↓

www.asahi.com

記事中では競艇のデータも用いいて、女性は男性と競争したときに力を発揮できない傾向にあるということが示されています。

個人的には、女子校に通う生徒はより精神的に安定しやすく、精神が健康であれば、勉学や部活に集中することもできる、という側面もあるのではないかと考えています。

 

共学化すべき理由

  • 教育機会の平等が担保できないから

私が個人的に強く「そうだよなー!」と思える理由はこの1つだけです。

ぶっちゃけ春日部女子高校より春日部高校(男子校)の方が偏差値が高いし、浦和第一女子高校より浦和高校(男子校)の方が偏差値が高い。こういう状況で、女子校に通うっていうのは、一段劣ったような気持ちにさせるよなあ、と、それにはめちゃくちゃ共感するんです。(なぜか同じ市の名前が入っていても男子校・女子校で偏差値に明確な差があることも、なにかこう、社会的な不均衡があるように感じます。)

そして、普通科の公立校でトップの高校は浦和高校なんです。ピカイチの学力のある男子はトップの高校に通うことができるのに、ピカイチの学力のある女子はトップの高校に通う権利がない。これは不平等である!と言われたら、ぐうの音も出ないです。本当にその通り。別学のせいで、権利を奪われている子がいるという事実に胸が傷みます。ごく少数ではあっても彼女たちのために、共学化は必要だ!と声を上げたい気持ちもかなり強くあります。

 

私が現状別学校の弊害として考えていることがもう1つあります。それは、マイノリティを知らない男子校出身者が権力者になることです。

県内の別学校のほとんどは、明治時代の尋常中学校・女学校として始まった超伝統校です。そのため、地域でもエリートとされる学生が通うイメージが定着しています。実際に春女は偏差値こそそこまで高くないにしても、中学校で学級委員や生徒会役員を経験している子がクラスの大半というような学校でした。

そのため、私たち公立別学校出身者はちょっとした選民意識を持っており、同属的な集団の中でその意識が強化されていくので、高校卒業後にわざわざ「公立女子校出身」です。と公立を強調してしまったりします。

ですが、女子はその後共学の大学に通って「オイ、ブス」と言われたり、男子だけの飲み会に呼び出されたり、リーダーを決める際に男子に譲ったりする経験を通じ、または社会に出てから、女性ゆえに昇進に苦戦したり、セクハラにあったり、という経験を通じ、社会は学校で教わったみたいに男女平等なんかじゃないと気付かされ、女子校という空間で自分がどれだけ守られていたのかと、遅かれ早かれ知るにいたります。そして、虐げられる側の気持ちを学び、選民意識は薄れていくのです。(私もいつしか「公立女子校出身です」とは言わなくなりました。)

一方、男子校に通う生徒たちの生活もその後の進路も私は想像するしかできませんので、ひどい男性差別だ!と言われるのを覚悟で考えをここに記します。彼らは私たち女子校出身者と同じように、選民意識を研ぎ澄まし、名だたる有名大学に進学し、大きな挫折も知らぬままに、官僚や県職員、大企業の社員になります。彼らはまだ男女が平等だと信じているし、世の弱者と言われる人たちは努力不足であるだけだと考えていて、そういう考えのもとで行政や大企業が動いていくんだと思ったらぞっとするのは、私だけではないでしょう。

ですが、この課題は教育によって解決できます。作家のアルテイシアさんが灘高生に対して行ったフェミニズムに関する講義のように、ジェンダー格差やマイノリティの現状について学ぶ機会をしっかりと設けていれば、上記のような問題は解決できると信じているので、この点は共学化すべき理由には入れません。

www.kobe-np.co.jp

他にも問題点としてあげられているのは、性の多様性をどう捉えるかですが、それはもう国内外の先進的な別学大学がそうであるように「MtFFtMもノンバイナリーもXジェンダーも女子校・男子校両方に入れる」でいいと思います。これは別学校問題とは別物だと捉えていますので、ここにこれ以上書く必要はありません。

 

私の中でも、別学校維持と完全共学化、どちらが正しいか答えはでません。ただ、ひとりの女子校出身者として、あの幸せだった3年間を、これからの高校生たちにも経験してもらいたい、という思いから、別学校維持を支持する立場に身を置くことにしています。

この記事を読んでくださった方にも、ぜひ考えてみてもらいたいです。そして、別学校維持を指示していただけるのならば、下記の署名にご協力ください。

www.change.org

この記事の拡散、シェアも歓迎します。

五十嵐ちひろ

読書文化と古本屋とお布施

今より10年以上前の話だけど、当時わたしの師と呼べる人が言っていた。「本は新品を買って読め」と。本の著者はその本に記す知識を得るために膨大な時間と労力をかけていて、それを本を読むだけで得られるようにしてくれているのだから払って然るべき。確か彼はそんな風に言っていた気がする。当時高校生か大学生だったわたし。彼の言うことは一理あると思ったがいかんせんお金が無かった。正確には明日食べる物にも困るような極貧では無かったのだが、マンガにしろちょっとしたエッセイにしろ、あれば古本屋で買うことの方が多かったように思う。

 

ときは経ってわたしも当時の彼の年齢と同じかそれを上回る歳になった。お金もたくさんとは言えないけれど十分に生活できるくらいには持っている。本はなるべく新品のものを書店で買うようにしている。当時教わったことを今こそ実践すべきとき、という思いもあるし、何しろ素晴らしい本を生み出してくれた人には印税が入って欲しいのだ。

 

多分わたしの中にあるオタクの部分がそうさせていると思うのだが、特にマンガにおいて好きな作品を作ってくれた作者にはお布施をしたくなる。銀行口座を公開してくれたら毎月500円くらいは振り込みたい作家が何人かいる。(500円は気持ちを添えるには安すぎるんだけど毎月複数名となるとこれくらいが限界)最近はそういう気持ちに応えてくれるシステムがあるにはあるけど、何より手っ取り早いのはその人の作品を正規のルートで購入して印税として還元することなのだ。

 

かつてオタクは言いました。自宅用、保管用、布教用に3冊セットで買う。と。確かに自宅用に1冊必要だ。それが呼んでボロボロになってしまっては悲しいのでもう1冊必要だ。更に人にも作品の良さを知って欲しいし貸している間に自分が読めないのは嫌なのでもう1冊、計3冊必要であるという考え方とわたしは解釈していたが、これはまるっきり自分本位な面しか見れていなかった。3冊買うことによって、作者には3冊分の印税が入り、また布教によって更に購買者を増やすことができると思うとやはりこの「自宅用、保管用、布教用」は非常に優れたアイディアであると思える。

 

ちなみに本に対して定価を支払うべきという考えを持つ人の中には「自腹を切って金を払えば元を取る為に一所懸命吸収するから」という意見もあるが、そんなのはうんこである。自腹を切って2年分払ったサーバーにブログの開設すらしないまま1年が経とうとし、親の脛をかじって行った留学先でイタリア語がペラペラになったわたしが自信を持って断言する。

 

本筋に戻る。本を買うなら定価で、作者にお金がちゃんと入る方法で。とてもクリーンな感じがする。しかしこの考え方は、突き詰めれば図書館や古本屋の存在を否定することになるのでは?という考えに行きつく。しかしそうではない、それは全く持って違うのだよ。

 

世の中には学生だった頃のわたしのようにお金が無かったり、本1冊に定価を支払う価値を見出せなかったりする人もいる。でもそういった人たちもやはり本を読む権利は失われてはいけないのだ。その為に、古本屋も図書館も絶対に必要なものだと思う。

 

面白いか分からない小説に、定価を支払う勇気がない?古本屋で買いましょう。いいと思ったらその本は布教用にして、自分用にもう1冊新品を買いましょう。もちろん生涯その本を大事に繰り返し読むのもいいと思う。どっかのブックレビューで高評価をつけておくのもいいし、作家の次の作品は定価で買ってみるのもいいし、別にそんな義理を通さなくてもいい。

 

いましている勉強にめっちゃ役に立つはずのあの本がべらぼうに高い?図書館で借りましょう。そんな高級な本、読む人がいないと図書館もいずれ蔵書をやめちゃうかも知れませんから、後に続く人の為にも必要な人がいるんだ、って証拠を残しておきましょう。そもそも普通の人がポンポン買うことを想定していないからその値段なんだと思うし。罪悪感を覚える必要はありません。その本から得た知識、おもいっきり発揮しちゃってください。

 

憎いあんちきしょうの書いた本を読んでからメッタクソに批判してやりたいけど、野郎の懐に金が入るのが嫌だ?まあ、古本屋で買ってもいいけど、多分そこまで執着している時点で野郎の懐に金が入るシステムに組み込まれていると思うよ、冷静になってね?

 

古本屋も図書館も、今は手に入らなくなった本に出会える場でもある。わたしが20年以上読み続けてこの冬最終巻が発刊された波間信子作の「ハッピー!」という盲導犬マンガも、なぜか第2部の「ハッピー!ハッピー♪」の10巻のみが出版社にも在庫が無い状況になっているので、いずれ古本屋で見つけようと思っている。あと、アノ漫画家のアレ時代の作品を手に入れたくて、池袋のまんだらけを定期的にパトロールしているお友だちもいるだろう?

 

と、どうしてもマンガの話が多くなってしまうわたしだけど、本も時々は買うし読む。最近は買っただけで読んでいないいわゆる「積ん読」や、残り10ページになったらつまらなくて読むのを止めてしまったり、最初の10ページ以降集中力が続かなくなって止めてしまったりした本もあるが、「積ん読も持ち主の価値観に影響を与えている」と言った偉い人がいるらしいので、それはそれでいいことにしておく。

 

読み終わったばかりのミステリー小説の読書体験が素晴らしいものであったので、またミステリーを読みたいなあ、でもこのペースで毎回定価で買うのは厳しいなあ、でも古本屋で買うのも図書館で借りて読むのも、作者の苦労にただ乗りするみたいでいやだなあ、とか考えてこの記事を書こうと思ったのであった。

 

まあ、こんな難しいことを考えなくても、古本屋にしろ図書館にしろ、読書という文化を支える存在であることには違いがないのだ。各々が自分にあったスタイルで本を読むことができる環境があることが豊かさなのだ。

 

 

ポケGOは人を繋ぐ

限りなく偶然に近い必然というものを体験した。

2週間ほど前のことだ。3年ほど顔を合わせていなかった友人のEから突然電話があり、なにごとかと思ったら今から答志島に来るのだと言う。実は彼女はわたしが答志島に住んでいることを知らないはずだった。にもかかわらず当日に「今から行く」という連絡ができたのはなぜなのか、その話がちょっと変わっていて、人に話したくなり筆をとったのである。

Eは大阪に住んでいて、ネット上で知り合ってもう5年ほどになる。わたしが大阪に行ったときや彼女が東京に来たときに会っていた。最近は会う機会は無かったが、ネット上に発信する近況を見て、ある程度お互いの消息はつかめていた。また、ある機会にお互いがポケモンGOをやっていることが分かり、ゲームの中でもフレンドになっていた。

ポケモンGOを知らない方に説明するが、これはオンラインゲームの一種で、位置情報を利用して、実際の地図上で架空のモンスター「ポケモン」をつかまえて集めたりたたかわせたりするゲームである。2016年夏にサービスが開始されて以降人気が続いており、不定期で新しい機能や遊び方が増えていっている。歩けば歩くほどプレイヤーのレベルが高くなったり、新しいポケモンのたまごが孵化したりするのだが、現実世界にランドマークが存在する場所には、「ポケストップ」「ジム」といったゲーム上の要所が存在する。ポケストップでは、ここに来ると、さまざまなアイテムがもらえるし、ジムではそこに置いてあるポケモンとバトルすることができる。ジムにいるポケモンをすべてたおして自分のポケモンをジムに置いたり、特別なポケモンの出現する「レイドバトル」で他のプレイヤーと協力し合ってポケモンをたおし、そのポケモンをゲットするチャンスを得たり、とにかく様々な機能が搭載されており、ポケモンの種類もどんどん増えていくし、サービス開始がら2年半経っても飽きずにプレーしている人が多いことも当然なのである。

たまたま答志島に旅行に来るEにわたしが答志島に住んでいると気が付かせたのは、実はこのポケモンGOだった。

ゲームの中のフレンド同士は、お互いにギフトをおくりあうことができる。ギフトはポケストップで手に入れることができるのだが、ギフトを受け取るときに、おくり主がどのポケストップでそのギフトを手に入れたのかが表示される。

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ギフトが送られてくるとギフトを手に入れたポケストップの写真が表示される

島外へ出かけるときには必ず鳥羽マリンターミナルを通過するので、マリンターミナルのポケストップでアイテムを手に入れることが多い為、必然的にフレンドにおくるギフトの入手先も鳥羽マリンターミナルのポケストップであることが多く、Eはこのポケストップを何度も目にしていた。恋人との旅行中にもしばしばポケモンGOを起動していたEは、見覚えのあるポケストップを見つけて、もしやわたしが鳥羽の離島に住んでいるのでは?と考えて電話してきた、という流れであった。

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鳥羽マリンターミナルのポケストップ

まさかポケモンGOが友人に3年ぶりに会わせてくれるとは思っていなかったので、わたしたちは驚きと喜びで、再会に大興奮した。Eとその恋人は思いがけず現地ガイドをゲットすることができたし、わたしはまた2人答志島のファンを増やすことができて、不思議で楽しい時間を過ごしたのだった。

ポケモンGOはすごい。ただのゲームとあなどることなかれ。人と人の縁を繋ぐこともできるのだ。

 

コンビニの24時間営業は必須か

最近話題のコンビニの24時間営業の必要性について、わたしの意見を述べます。まず、わたしの住んでいる答志島にはコンビニはありません。もちろん、移住する前からその事実は知っていますが、それはわたしにとって移住を逡巡したりえる要素ではありませんでした。

留学先で学んだコンビニの無い生活

話はわたしが2年前に移住するより更に4年ほど前に遡ります。当時わたしは、イタリアのフィレンツェに住んでいました。1年間の語学留学をしていたのです。当時フィレンツェには24時間営業のコンビニはありませんでした。スーパーも基本的には20時頃には閉まりますし、遅くまでやっている店もせいぜい22時くらいまででした。夕食を終えてからお酒を飲みに出かけるときに、待ち合わせ前の1本のビールを買うのにちょうどいい時間までは空いていたので、たしかそんな時間だったはずです。夜中に営業していないスーパーですから、朝だって決してそんなに早くは開いてくれません。24時間コンビニが開いている日本での学生生活と違って、軽食を買いながら学校に行くとかももちろんできないわけです。

24時間営業のコンビニ、スーパーのある生活が当たり前の日本人にとって、そんな環境は決して便利とは言えないかも知れませんが、実際に生活してみてわたしが持った感想は「案外といけるな」でした。フィレンツェの水道水はあまりおいしくなかったので、わたしはペットボトル入りの飲料水を自宅に常備していましたが、夜中に切らしてしまっても、買いに行くことはできません。日本と違ってどこにでも自販機があるわけではないですから、そんなときは我慢して沸かした水道水を飲んだりしていました。だけど、それって切らす前にちゃんと買い足しておけばよかった話で、それは牛乳にしても、乾電池にしても、生理用ナプキンにしても同じことです。

根がだらしない性格なので、前もって対策する癖を十分につけることはできませんでしたが、お店の閉まっている時間になにかが必要になっても、コンビニが無いことを恨むのではなく、この環境に適応できていない自分が悪いのだと反省するようになりました。そして考えたのは、コンビニが無くても生きていけるなら、わたしってきっと日本の田舎でも生きていけるな、ということです。イタリア留学の経験が無ければ、こんなに早く地方移住をしていなかったでしょう。

24時間じゃないコンビニもアリ

よく「島ってコンビニ無いんですか?厳しくないですか?」と聞かれますが、わたしは全く不便には感じないです。商店は朝6時半から夜は20時過ぎまでほぼ年中無休で開いているので、イタリアのスーパーよりよっぽどコンビニエントです。

それなので、わたしにとって24時間営業のコンビニは全く必要の無いものと言っても過言では無いのですが、他の人たちにとっては必要かも知れません。例えば長距離ドライバーさんが気軽にトイレを利用できたり、夜中に電気がついていて人がいることで防犯につながったりと、社会的意義はあると思います。だから、わたしの生活には無くてもいいけど、24時間営業のコンビニ全部が消えて無くなればいいとも思わない。夜中にふと思い立って食べるコンビニスイーツの至福を味わえる人が存在する世の中って素晴らしいと思うし。ただすべてのコンビニが24時間営業しなきゃならないか、っていうとそうでも無いよね。。コンビニ大手はすべての店が24時間営業っていうのもブランドのうちなのかも知れないけど、必要に応じて変えていく時代になってきているんじゃないかと感じます。

デザインと地域づくりの関係

先日、東京で地域おこし協力隊全国サミットというイベントがあり、参加してきました。全国で活動する地域おこし協力隊が集まって、ブース出展で地域の宣伝を行ったり、地域づくりの勉強になる講演を聴いたり、ワークショップを受けたりするイベントです。

基調講演の内容が共感でき、またとても為になったので、記しておこうと思います。この講演のテーマは「地域×デザイン~地域創生に効くデザイン~」です。登壇者はgood design company 代表の水野学氏です。中川政七商店や、くまモンのデザインで有名なクリエイティブディレクターの方です。

 

さて、彼の話はデザインとは何か、という話で始まりました。多くの人はデザインというと装飾、ただの飾りのことを指すのだと思っているけれど、実際はそうでは無いのです。少し話はずれますが、わたしが大学時代に師事した先生の話をさせて下さい。わたしは大学ではアートやデザインについて学んでいました。色彩構成という授業を取って最初の授業で、担当していた先生はデザインとは何か、という話をしました。彼が言っていたのもやはり、デザインとは決して装飾的なことのみを指すのでは無い、ということでした。先生はタブレット状のパイプの洗浄剤を手に持って言いました。「この洗浄剤のパッケージは小さな子どもには開けられないように作られています。口に入れたら大変な物だからです。見た目が良いことだけでなくて、しっかり大切な機能を果たすこと、これも一つのデザインなんです。」ですので、見た目を追及するあまり使いづらくなっているモノに対する「コレは見た目だけだから機能なんていいんだよ」というコメントを聞くたびに「違う、そうじゃない、デザインって言うのは違うんだ」と思って生きてきました。水野氏のお話もまた、それを裏付ける話から始まったので、テンションが上がったのです。

デザイン=機能デザイン×装飾デザイン

ではデザインとはいったい何なのか。水野氏は飛行機を例に挙げて説明しました。まず、飛行機にとって機能として必要なものは「飛ぶ」ということです。その為には飛ぶ形をデザインしなければなりません。いくらそれがかわいいからと言って、丸い形では、飛行機は飛びませんので、デザインとしては失敗です。飛行機にとって必要な「飛ぶ」という機能を果たす形にすること、それが機能デザインです。しかし、いくら飛ぶからと言って、ぱっと見でダサければその飛行機に「乗ってみたい」とは思わないでしょう。とんでもない色が使われていたり「根性」という文字が書かれていたら、なんだか不安になります。これらをクリアにし人々に「乗ってみたい」と思わせるのが装飾デザインです。

地方創生も同じで、目的を達成させることがデザインには必要です。例えば地方でイベントを何か行う為にポスターを作成するとしましょう。ポスターを作ることによって達成されなければならない目的とはなんでしょうか。イベントだけを見れば、そのイベントにたくさんの人が来ることは大事でしょう。しかし、その先にある目的は「その地域に興味を持ってもらう」ことだとか「移住者が増える」ことかも知れません。そこまで考えて、デザイナーに伝えて、それを表現するようなポスターを作らなければならないのです。

企業や自治体がデザインを導入しない理由「4つの壁」

多くの企業や自治体は、デザインを導入しませんが、それには4つの壁があるのだそうです。経産省のホームページに載っているデザイン導入の効果測定等に関する調査研究という文書から以下引用します。

① 技術至上主義の壁
デザインは製品に化粧をする「美顔術」であり、本質的なものではないと思っている。このため、技術に比べて優先度が低く、デザインの必要性に思い至らない。
特に、生産財の世界では、機能や技術が最優先であり、デザインが入り込む余地はないと思っている
② 費用対効果の壁
デザインに対する投資の必要性を感じても、どれだけの効果が具体的に見込めるのかがわからず、踏み切れない
③ トラウマの壁
高いデザイン料を払ったものの売上が上がらなかった、デザイナーと大喧嘩した等の過去の失敗経験がトラウマになっており、二度とデザイナーと関わりたくないと思っている
④ 体力の壁
デザインの必要性を感じても、デザイナーに関する情報を集めたり、デザイン料を払ったりする資源的な余力がない

1つ目の技術至上主義の壁は「技術があれば、いいモノならば売れるだろう」という考え方から来るものです。確かに技術がずば抜けていれば、プロダクトは売れます。しかし、裏を返せば、そうでないのなら売れない、ということです。水野氏が挙げた例は地酒です。世の中にはおいしい地酒がたくさんありますが、そのどれもが売れているかと言うと違います。その商品の価値を表すデザインやブランド戦略がある地酒のみが売れているのです。

2つ目は費用対効果の壁ですが、これは良いデザイナーと組むことによって解消されます。有名だからいいデザイナーとは限りません。水野氏によれば、良いデザイナーとはその人との関わりによって、企業や商品、団体が変わるのだそうです。また、デザイナーを決めてからデザインを任せるのではなく、誰に頼むかを決める時点でどんなデザインにするのかを考えるべきだと言っていました。それが、地方創生におけるデザインをする上で自治体職員や地域おこし協力隊などのデザインを発注する側がしなければならない仕事なのだそうです。

3つ目のトラウマの壁そして4つ目の体力の壁もやはり、良いデザイナーを自分たちでしっかり探して選ぶことによってしか取り払えません。ここで水野氏がくださったアドバイスは、「デザイン=高い」は思い込みだということ。今はたくさんのデザイン会社や個人で活動するデザイナーがおり、中には依頼料は安くても企画自体が面白ければ仕事を受けてくれるデザイナーがいるかも知れない、と言っていました。具体的には、アートディレクターズクラブが出している年鑑などを元にデザイナーを探すという手があるとのことです。

 

ちなみにデザイン投資に対しての営業利益は4倍というデータがあります。これもやはり水野氏が紹介していたことですが、経産省「デザイン経営」宣言という文書にはそのようなデータが載っています。これはイギリスのデータですが、£1のデザイン投資に対して、営業利益は£4、売上は£20、輸出額は£5増加しているのだそうです。だったらデザイン、導入しない手は無くない?

ブランディングデザイン

デザインを導入する上で大切なことは、ブランドをデザインすることだそうです。じゃあブランドって何か。水野氏はこれを「見え方のコントロール」と表現します。例えば何か事業を企画するとき、そこには企画者の思いが存在するし、コンセプトとかも大抵の場合はしっかり作ることができます。しかし、それを表現することが上手く行かなかったら、せっかく作り上げたコンセプトも無かったと々ことになってしまいます。最初の話に戻りますが、デザインが単なる飾りだと思っていると、出来上がるデザインは安易なものになりやすく、こういう事態になりがちです。

ブランディングデザインは、受け手にとって自分たちのブランドがどのように見えるのかをコントロールすることです。企業(もしくは自治体や団体など)から消費者に対する発信の方法は広告一つではありません。商品自体、パッケージ、SNS、社長の人格や、クレーム対応に至るまで、消費者に対するアウトプットの積み重ねがそのブランドのイメージをかたち作るのです。その為にブランドを作る側が忘れてはいけないのが、受け手側になったときの気持ちなのだと水野氏は言います。

 

デザインというものが上記したようなものである、という前提で、今度は水野氏自身の手掛けた仕事についてのお話を聞きました。相鉄ホールディングスという神奈川県内を走る鉄道のデザインを依頼されたときのことです。いきなりデザインするのではなく、まずは相鉄についてよく調べ、その中で相鉄にとって横浜が財産だという考えに至り、横浜らしさを売りにするデザインを考えるという方針が立ったのだそうです。コンセプトは「安心×安全×エレガント」。コンセプトというのは、地図や警察、道しるべの役割を果たします。つまり、何かを決めるときの基準、ここに戻ってくれば正しい判断をできる、というものがコンセプトなのです。このコンセプトにのっとって、駅舎を落ち着いたグレーに塗りなおしたり、車体をYOKOHAMA NAVY BLUEと名付けた色のものにしたりしたのが、相鉄ホールディングでの水野氏の仕事です。

 

また、この後に熊本県の職員の成尾雅貴氏を交えてのトークセッションで、くまモンを生むことになった流れについてのお話も聞けました。元々は「くまもとサプライズ」というスローガンのロゴ作成を依頼されていたのだそうです。くまもとサプライズとは、以下に説明するものです。

九州新幹線全線開業をきっかけに、熊本県民が自らの周辺にある驚くべき価値のあるものを再発見し、それをより多くの人に広めていこうという運動。多くの人をひきつける観光資源となることはもちろん、様々なサプライズを掘り起こすことで、県民自身の日常がより豊かなものになる、ということが最大の目的である。(熊本県ホームページより引用)

ロゴマークのデザインをする上で、やはり背景を調べ、このプロジェクトには旗振り役が必要だと考え、くまモンを作ったのだそうです。成尾氏の言葉を借りれば、水野氏は「期待には応えるけど、予想は裏切る」デザイナーなのだそうです。とにかく、水野氏がデザインをする中で「目的を忘れない」ことを大切にしているのだと言うことがわかります。

くまモンに関する話ですと、熊本で地震があった際に新たに作られた復興マークのエピソードもすてきです。くまモンがハートを抱いたデザインなのですが、熊本の復興を願って行われたイベントや活動で広く使用されました。例えば、現地でのボランティア活動でも、街頭での募金の呼びかけでも、居酒屋の熊本復興キャンペーンでも使われました。それぞれが別のことをしていても、同じデザインを使うことで、皆が同じ気持ちだということが熊本の人たちに伝わるのに大きく貢献したと言います。デザインにはそんな力もあるんですね。

 

これらの話を聞いて、本当デザインってものすごく重要なものなんだな、って思いました。これまで自分が企画したイベントのチラシとかを作ってみたりしたけど、単に情報を構成できるのと、デザインができるのは全く別物なんですよね。今後自分が何かを企画するときに、すてきなデザイナーさんと仕事をしたら、きっとすごく楽しいんじゃないかな、ってワクワクしました。

予算がついたから、いつものデザイナーさんに、代わり映えのしないチラシを頼むんじゃなくて、予算がついたから有名なデザイナーさんに、とりあえず目立つポスターを作ってもらうんじゃなくて、自信を持って世に出せる企画を作って、それを誠実に表現してくれるデザイナーさんと仕事がしてみたい!そう思います。

ミセス・メイゼルへの憧れ

この記事を最後まで読んでもらう為に、キャッチ―な導入の一文が欲しいと思った。5分程悩んで、諦めた。わたしがこれから紹介する物の魅力を表現するのに、見合うものが浮かばなかった。だけど、早く語りつくしてしまいたい。それほどまでに魅了された。

マーベラス・ミセス・メイゼル」わたしが紹介したいのはAmazonオリジナルドラマだ。

ここで、バーンと大きな画像を載せたいところだが、1つ前の記事著作権についてわめいたばかりなので当然控えます。

 

あらすじ

舞台は1958年、主人公は裕福なユダヤ人家庭の主婦のミッジだ。ニューヨーク・アッパーウェストサイドで数学者の父と専業主婦の母が住むマンションの階下の部屋に、会社副社長の夫と二人の子どもと共に住んでいる。夫のジョールは趣味で漫談をしており、ガスライトというダウンタウンのクラブでしばしばショーをする。ミッジはそんな夫を献身的に支え、ネタ帳を作ったり、出番をいい時間に替えるためにクラブの責任者を手料理で買収したりしていた。ある晩、ショーで大コケしたジョールはミッジに別れを切り出す。実は秘書の若い女の子と浮気していたのだ。ヤケになったミッジは酒を浴びるように飲み、酔ったままガスライトへ行き、即興でその日の出来事を面白可笑しく語ると客には大ウケ。これをきっかけにガスライトの従業員のスージーが彼女のマネージャーとなり、コメディアンとしての道を歩み始める。

youtu.be

魅力的なキャラクター

ミッジ
言うまでも無く、ミッジは魅力的だ。頭がキレるしファニーな女性というのは、創作の中では理想的なキャラクターだと思う。
スージー
よく男に間違われる背の低い女性。貧しい田舎の家庭の出身で、半地下のワンルームに住んでいるため、ミッジとは全く住む世界が違う。ショービズ界で成功する為に地道に人脈を広めて勉強もしていたので、マネージャーとしての手腕はある。汚い言葉とかめっちゃ言いまくる。
ジョール
あらすじだけ見るとダメ男みたいだけど、実はめっちゃ仕事ができるし、ミッジの1番の理解者でもある。顔も好きです。
ローズ
ミッジの母。美しくあることで良い男の妻になり、悠々自適な生活を送ることこそ正しい、と思っている感じのお母さん。ミッジの娘(まだ1歳くらい)のおでこが広すぎることを心配している。実はフランスへの留学経験があり、貧しい暮らしもお手伝いさんのいない生活もできる。
エイブ
ミッジの父。大学で数学を教えている。かなり頑固で偏屈な扱いづらい人間。この扱いづらさで濃いキャラクターたちの中を生き残っている感じ。
モイシとシャーリー
ジョールの両親。ザ・成金ユダヤ人って感じ。同じお金持ちでもお上品なミッジの実家とは種類が違うので、そりが合わない。
レニー・ブルース
実在したコメディアン。正確も芸風もアイロニック。同じ日に逮捕されたのがきっかけとなり、ミッジを気に入り応援してくれている。レニーが出てくる回はなんか嬉しい。

音楽

BGMは50年代60年代の音楽が流れる。聞き覚えのある曲が聞けた回はなんだか嬉しい。1話に1度はミュージカル風の演出でカメラワークのすばらしさを見せつけてくる。Amazon本気やな、って感じ。

ファッション

この時代のファッションってあこがれる。パリッとしたシルクのAラインのワンピース、縁にラインの入ったセットアップ、服の色に合わせたかわいらしい帽子の数々。わたしはファッションブランドには詳しくないけど、ハイソな人たちのお話だし、多分そうそうたるハイブランドのヴィンテージのお洋服かそれらを復刻させた物が使われているんだと思う。ああ、1度こんなドレスコードのパーティーを開いてみたい。

女性の権利

このドラマを好きになった一番の理由は、女性の権利について考えさせられる部分がたくさんあるからだ。まだウーマン・リブも起こる前の時代、今よりもずっとずっと、女性の地位が低かった時代に、男の世界であったコメディで頂点を目指す主婦の話はワクワクしてしまう。ミッジの芸風もまた、フェミニズムに通じるものがある。フェミ嫌いな人は見ない方がいい。彼女のネタに笑うことで自己嫌悪しちゃうから。

例えば、今まで住んでいた家が実は義父モイシの名義だったことについて。「(前略)ブラのせいね。でしょう?ブラジャーよ!それにガードルやコルセットやなんかに締め付けられてるせいよ!脳に血が回らないんだわ!いつも立ってるのがやっとだから、夫の言うことをそのまま信じちゃうの!」会場にいる女性たちが、うんうん、とうなずきながら笑う。靴のことでも同じようなことを言っていた。夫の靴を履いてみたら、すごく履き心地が良かった、世の中が男性優位なのはハイヒールを履かないからだ、とかね。

また、痛快だったのは、コメディアンばかりが出演するショーでのアドリブ。出演者たちがショーの前にセクハラまがいの発言で絡んできたばかりでなく、スタンというコメディアンはショーの最中に彼女を貶めるようなことを言って、ミッジは非常に屈辱的な思いをする。だがその後のミッジの反撃は最高だった。バーに並んでいる男性コメディアンたちをお笑いでもしなきゃ女を抱けない男たち、と呼び、更にスタンを集中攻撃!「(前略)お笑いは逆境を燃料にするの。無力感や、寂しさや失望も燃料となる。自暴自棄や屈辱もね。どれも女の専売特許だわ。その基準なら面白いのは女だけよ!あとスタンも。」

彼女の芸風に嫌悪感を覚える男性は多い。実際にショーの最中に「キッチンでも磨いておけ!」とヤジを飛ばされることもある。女芸人だからと軽く見られるし、歌手でもすればいいのに、というコメントはしょっちゅうだ。ちなみにこの「歌手でも」というのも非常に失礼な話で、女性は見た目が良ければ歌の上手さなんて誰も評価していない、という意味。

こういった逆境に笑いで立ち向かう彼女の姿に、女性であるがために理不尽な仕打ちを受けたことのある女性なら誰しも勇気づけられ、また胸のすく思いがするはずだ。

 

こんなわけで、このマーベラス・ミセス・メイゼルにドはまりし、1週間であっという間に現在公開中の2シーズンのエピソード全てを一気に見てしまったのだ。ジョールが転職したり、母ローズがフランスに行っちゃったり、新たな男性が現れたりする中で、着実にミッジはスターダムを登っていく。シーズン3の公開が待ちきれないけど、まずはシーズン1と2を見てみて。きっと笑える話があるから。

 

路線バスローカル線の必要性について考える

初めましての人もそうでない人もこんにちは。五十嵐ちひろです。普段からブログを書いているのだけど、自分の住む島や、そこでの暮らしについての話がメインなので、少しずれるかなあ、と思うようなことはこちらに書いていくことにする。普段のブログとか、わたしの素性についてはこちらをご覧ください。↓

地方に移住してみて、思っていたよりも大変だったことは公共交通機関の利便性の低さだ。なんと言っても本数が少ない。定期船に関しては正直そこまで文句は無い。好き好んで離島に移住したからには、定期船の時間に縛られた生活にはある程度がまんすべきだと思うし、船が日に10往復しているのだから、そこらの離島よりはずっとマシな状況と言える。

ただ、定期船に乗って本土へ来てみた所で、電車やバスもまた本数が少なく、本数が少ないもの同士を乗り継ぎダイヤにするのも不可能に近く、乗り継げば乗り継ぐほどロスする時間が多くなる仕組みになっている。隣町の医者へ行くのでも半日がかりの仕事になってしまうのが実情だ。その為多くの島民は本土に車を置いている。地方はどこも車社会なので、当然と言えば当然だ。

でも車を運転できないお年寄りや未成年などは、多くの場合電車やバスを利用して目的地に向かうが、時間の制約を受けずに目的地に向かう方法として、乗り合いも利用している。本土に家族や親戚を持つ人は、船の時間に合わせて迎えに来てもらうことも多い。また、同じ船に乗っていた知人に頼んで目的地まで送ってもらうことも決して珍しくない。わたし自身、「通り道だから乗っていきな」と言ってもらえたことが何度かある。乗り継ぎ時間も合わせて電車と徒歩を組み合わせたら、1時間近くかかってしまう耳鼻科に20分程度で着いてしまったので、普段自分がどれだけ時間を無駄にしているのか、と軽くショックを受けた。

電車やバスの本数が少ないのは利用者が少ないからだ。しかし、移動手段の無い人にとっては多少利便性が低くても利用せざるを得ない。その為鉄道会社やバス会社は、廃線することができない。自治体は補助金を出したり「路線を残すために利用しましょう」と言ったりするが、その為にわざわざ不便を被ってまで時々バスを利用する人がいるのか疑問だ。「バスが必要な人たちの為に路線を残す必要があります。運営費に充てるので現金を下さい」と言った方がよっぽど趣旨は伝わるんじゃないかと思う。一人暮らしの老人の家族とかは、それで寄付するかもしれないよね、家族の生活にとって欠かせないものなら。だけど、大多数の人はバスや電車が無くても困らない。

そんな状況を解決するために、乗合自動車サービスができたらいいとわたしは思う。同じ方向に向かう車に便乗させてもらって少しばかりの運賃を支払う、というもの。海外だとそれ専用のアプリもある。現状日本の法律では白タク行為にあたるらしくって、できないみたいだけど。観光地でタクシーが足りなくなっているところで、規制緩和するより、地方でこそさっさと導入させて欲しい。

今なら地域コミュニティが機能していて、好意で車に乗せてあげたりできる社会も、いつまで存続するか分からないし、だったらお金を払ったり貰ったりした方が、色々やりやすい場合だってある。近所の人の好意に甘えるより、知らない人にお金払った方が気楽だと思う人もいるだろうし。

この際バスも電車も廃線にしちゃおう。浮いたお金で配車のシステム開発したり、その他の福祉サービスを充実させよう。無理にバスや電車を存続させようとするよりも、ずっと建設的なアイディアだと思うんだけど、どう思いますか?